2016/04/03

今日1日を大切に過ごそう

水族館計画について、店頭やメールでの励ましの言葉に感謝です。とりあえずSNSの立ち上げまでもう少しです(今日は寝不足なので無理ですけど)。

なので今日は東北旅のことを書きましょう。
震災から5年が経ちましたが、その間何度も行こうかと思ったのですが機会がなくて来る事ができなかった被災地。もしかすると目前にするのが怖かったのかもしれません。でも、これ以上機会を逃すとどんどん痕跡が消えてしまいそうな気がするので意を決して家族と海岸に向かいました。

仙台市から南下し、名取市に向かって県道を進むと周囲は次第に荒野に変わっていきました、明らかに不自然な感じなので、ここが現場であるというのはすぐに感じました。ADA本社の周囲の水田の雰囲気を知っているなら分かりやすいのですが、その水田が全て荒れ果てているよな感じです。
しばらく進むと荒野の中にポツンと残る大きな建物が見えたので近くに行ってみました、どうやら小学校のようです。
校門があったであろう場所にはバリケードが張られ立ち入り禁止になっていましたが、その離れた場所から見ても1階が損壊しているのが分かりました。そこへカメラを持った70代ぐらいの男性が二人近づいてきたのです。
「同窓生の方ですか?」と聞かれ「いえ、新潟から来たんです」と応えると事情を説明してくれました。この日3月31日でこの小学校が閉校になるらしく、最近記念の式典があったという事。きっと震災がなければ普通に存続していたんだろう。私がテレビでは伝わらないことを知るために来たと説明すると、二人は当時の生々しい記憶を詳しく話してくれました。
私は周囲の荒野が水田跡だと思っていました、海水を含んだ土では稲が育てられないんですか?と聞くと、水田どころか一帯は住宅街だったと聞いて言葉を失いました。小学校の2階まで飲み込んだ津波が一帯の住宅を全て押し流していき、荒野になったのだそうです。
近くに痕跡があるから見てきた方がいいと言われて行ってみると、家の基礎部分だけが残された一帯がありました。
そこはまるで空襲を受けた焼け野原のような光景。荒野の反対側にはすぐに海がありましたが、すでにコンクリートの巨大な塀が立ち、その存在を否定しているかのようでした。仙台平野は本当に高台が少なく、画像でも避難できる場所なんてほとんど無いのがわかります、波に飲まれた人の無念を痛感します。

震災直後は長期間にわたり電気も水も無い状態で本当に大変だったそうです、それ以上に辛かったのは5年前のこの場所の光景で、男性は話の途中で言葉に詰まって目に涙を浮かべていました。「何もできなくて本当にごめんなさい」私が言えたのはこれだけでした。

観光ついでの被災地見学なんて不謹慎かと思っていましたが、二人の話からはそれでもいいから現実を見てほしいという想いが伝わってきました。たしかに自分の中の何かが変わりました、来て良かったと思います。

最後に慰霊碑に手を合わせ、震災の犠牲者そして震災以外に不幸な死を遂げた全て命の冥福を祈ります。どうか安らかに。