2013/10/30

グラスウールとニトロセルロース

今日は久しぶり(?)にミニ四駆を語っちゃいますかねぇ。
年末に年間チャンピオン戦がありますが、とりあえず今年のジャパンカップは終了し、長い夏が終わったようです。できれば参戦したかったのですが、親子共に経験不足なのと、一番近い開催地でも群馬県だったので二の足を踏んでしまったというのもあります。今さらですが今後の経験のためにも行っておけば良かったと思っています(店は臨時休業という事になりますが…)。
だから来年は行っちゃいますよ~、そろそろ日本海側でも開催しても良いころでしょうから新潟で一本お願いします。

今からお伝えしておきますが、来年から地元消防部の部長昇格がほぼ確定しておりますので、上半期は容赦なく週末の臨時休業が頻発してしまいます。奉仕である消防活動が仕事に影響を及ぼすのは筋違いにも思えますが、これも運命ゆえ2年間ご迷惑をおかけいたします。

話はミニ四駆に戻って、私が小学校6年の時の話。当時の盛り上がりは今以上で、玩具店にとどまらずスーパーの片隅にまでミニ四駆のサーキットがありました。とはいえ今のようにタミヤ公式の機材を使っている店などなく、どこも木材やプラ板を使っての自作物で、マシンの精度など何の意味も持たないような所もあり、それはそれで楽しかった記憶があります。
私の初戦は市民プラザが「いづもやジャスコ」だった頃、玩具コーナー主宰のミニ四駆大会に出場しました。当然見たこともないメーカーのサーキットでしたが、それでも見事3位入賞を果たし、期待して受け取った商品が明らかに売れ残りの「タミヤのじゃないミニ四駆」で、少年時代の心に深い傷を負った事を覚えています。

そんな草レースでは満足できなくなってきた私がジャパンカップを意識するのは自然な事で、その年の新潟大会のエントリーをハガキで申し込み、友人3人と共に新潟そごうの屋上に乗り込みました。
当時は予選と決勝でサーキットが異なり、夢のロングサーキットで走るには決勝に残らないといけませんでした。この頃のミニ四駆パーツではコーナーで飛ばないようにするのが精一杯、一番の難所がレーンチェンジというレベルでしたが、それでもそこでコースアウトするマシンが続出、一発勝負だけにビビった私はスタート前にある程度電池を消費させてスピードを落として挑みました。
スタートした1次予選、私のマシンは作戦通り順調に周回を重ねるも、前を走る(今でも忘れない)「ダッシュ2号」に逃げ切られ2着、俺の夏は終わりました。
結局そのダッシュ2号は決勝まで勝ち残り、総合3位で表彰台に上っていました。敗者の群衆の中でその姿を見ながら守りに走った自分を責めていたのでありました。
当時の規定には年齢制限があったので、勝っても負けても最後の夏だと思っていたのですが、25年の時を経て得たまさかのリベンジのチャンスを逃す訳にはいきません
私にとってのジャパンカップの相手はレーサー達ではなく、あの時の自分なんです。そんな話をしておけば仕事そっちのけでも許してもらえるかなぁ?なんつって。(マジで実話ですからね)

11月半ばぐらいにはセブンスのサーキットを解体して、我が家の仏間サーキットを本格的にジャパンカップ攻略用に組み直します、たぶん来年も特大ジャンプがあると思うので、それを再現してやろうと思います。
目標は来年夏!「先長すぎだろ?」いや、そんな事はない、本気で挑むには時間が足りないぐらいだぜ!
(だったら水草コンテストも参加しろよ)